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2021.02.08

ツワノアーカイブプロジェクトーまちの面影を探しに行こうー

 1970年に日本国有鉄道(国鉄)が始めた国内旅行者の増加のために始まったキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」によって津和野は、古い町並みや掘割が残る観光地として一躍有名となりました。今では観光地としての印象が強い津和野ですが、実は観光ブームとなる1970年以前は、観光とは違った産業・生活が営まれる町でした。

 こうした「観光地となる前の津和野」は、どのような暮らしがされていた場所だったのか。現在の様子と繋がりつつ、今とはちょっと違った津和野の日常を集める「津和野アーカイブプロジェクト」を始めます。

 

 ここに大正時代に撮られたとされる1枚の古写真(写真1)があります。写っているのは、古い町並みを背景にして津和野の盆踊り「津和野踊り」を踊っている祭りの様子ですが不可解な点がいくつかあります。

写真1:大正時代に島根県津和野町本町3丁目で行われた津和野踊りの様子

 

いつも夜に行う踊り(写真2:今の盆踊り)とは違い、写真はまだ暗くなってない昼間に撮影されていることから、何かのイベントの時の写真のようですが、衣装も現在の津和野踊りと若干異なる派手なもののように見えます。このようなイベントは聞いたことがありません。

写真2:2020年現在の津和野町盆踊り(出典:津和野町HP)

 

最後に、最も不思議な点は場所です。写真は津和野のはずですが、背景に移っている街並み、建物の並びや店の名前をみると、現在見られる建物はひとつもありません。一方、これが津和野の写真だとすると、写真奥で突き当たりとなっていることから、津和野のメインストリートの終点、今のM薬局の近くと推測できます。このあたりは津和野の古い町並みの中でも比較的建物が新しい一角です。そこで、昔の津和野の様子に詳しいM薬局のY子さんに話を聞きに伺いました。

写真3:2020年現在の写真1と同じ場所と思われる場所(本町通り)

 

Y子さんによると、薬局が現在の場所にできたのか、正確には分からないですが、ご実家は、もともと川の向こう側の橋の袂にあり、Y子さんが生まれた直前の昭和5年頃に現在の場所に引っ越してきた記憶があるとのことでした。家に養子で来られたY子さんのお父様のご実家が山口で薬局をされていたことから、津和野でも薬局を開くことになったそうです。またY子さんのお祖父様は、津和野の町長として廃藩後に教育立町を宣言し、Y子さんも通っていた郡立高等女学校や、県立中学校を創設する等、町の教育の充実に尽力された方です。退職後は自ら提案した郷土博物館の館長をつとめ、森鷗外記念館のアイデアも出していたそうです。

 さて写真について伺ったことをまとめると図のようになります。

 

図:今の町並みと1940年頃の町並み

 

まず、奥に写っていた大きな建物について、薬局が建てられる前にあった「つちや」という名の呉服屋さんで、薬局の周辺の敷地も含めた一体の敷地に大きな建物や蔵が建っていたと聞いたことがあるそうです。

写真4:つちや呉服店

 

その後店の閉店に伴い、今のように敷地が分割され売却されて公園ができたり、建物が建てられたりしていったと考えられます。また古写真に写っている他の建物は、Y子さんの子供の頃にも建っていたそうで、現在は閉じられてしまったお店が多いですが、当時は、他にも様々なお店が立ち並ぶ賑やかな通りだったようです。Y子さんの話だと近代的なスーパーになる前は、野菜は八百屋、肉は肉屋で買うのが当たり前で、アメリカ式のスーパーができて、まとめて買えるようになったことに驚いた記憶があるそうです。戦前のこの時期この場所は、まだまだ西洋の新たな文化が目新しい時代に呉服や和菓子、表具等のように古くから続く店と時計屋や西洋料理、パチンコ等当時目新しい店が入り混じる活気あるところだったと推測されます。

 

 お話をお聞きした後、古い写真や地図を探すと、場所はわからないものの確かにつちやの存在を確認できる写真が見つかりました。

 

このように、この一角は、古い町並みで有名な津和野の中で、今ではあまり目立たない地区ですが、まだまだいろいろなエピソードがありそうです。次はこうした戦前の町の商業や産業に注目して、町の様子を見ていきたいと思います。

 

聞き手:畔柳知宏(津和野町教育委員会集落支援員 )、ペルラキ・デネーシュ(山口大学経済学部助教)、山岡浩二(津和野郷土史家)

※本記事の内容は、個人の方への聞き取りの結果に基づいて、聞き手が考察した仮説であり、必ずしも事実通りであるとは限りません。

 

 

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